石緑
黒鍵のいつまでも探し当てられぬアコーディオン弾きを森に残して
窯のなかのひつじのことをうやむやにして
ブーツのかかとを切り落として
犬より劣る鳴き真似をして
毎日あなたの
靴ひもの心配をしています
天井のあまたの電灯は瞬きごとにふたつに分裂していつか誰かと見た回転する
ほしを
あなたの眼前につきつけてやる
そうかそうやって
最後に残るのはあくび
ほかのだれとも重なるあなたのため息
ねこのしっぽをとなりの犬の舌と結んで
となりの犬の舌と読みかけの新顎十郎捕物帳2の栞をきつく結んで
そうしてあなたの舌に
辿りつくまでわたしは製氷機に自分の舌を
つけたまんまで待っていますね
おりたたまれて
たくさんの本をもとの本棚に戻してはまた、繰り返し身体の規則正しい運動にはなはだ困憊しきり綿のような身体で涙線のかくもゆるむのは、
このごろまれのことでそれもただ身体をのみ酷使した場にはさだまらぬ情緒すら浮かばぬ落涙のある、
深く息を吸い込んだままでまなうらにくゆる色をみとめゆつくりと、吐くとともにわたしはいま落涙するのです。
「私は段段悲しくなって来て、涙が何時迄も止まらずに流れた。そうして、こんな事を考えた。目玉の中から出る涙と、心の奥から出て来る涙とある。心の奥から出た涙でも、心は涙の通るのを知らずにいることがある。出て来た涙を見た後で、初めて心の奥を知る時もあるだろう。そうだそうだ、どうやら解りそうになって来たと思って、私は猶の事泣いた。」内田百閒/波止場
神社なのにだれもいない
今朝道路脇でショッキングピンクの「つの」を拾った。「つの」は弾力があってすこし、湿っている。むかしつるバラの、棘を折って唾をつけ鼻のあたまに乗せていた要領でショッキングピンクの「つの」を鼻のあたまに乗せて少し歩く。
登校中の子どもの声に「ここは神社なのにまだ誰もいないね」とはつきりと聞こえ、連れ立ったもうひとりは俯いて石を蹴っている。
鼻のあたまにショッキングピンクをつけたまま、僅か首をそちらに向けて子どもの先の、ほこらに目を遣る。
すると今度は寒さがどこからもやってくる。
ほつかいどうはいまもさむい
四歳のときだったか五歳のときだったか、まだ道路脇に堆くゆきの残るきせつ、母と駅前の横断歩道で信号をまっていた、わたしはそのときのかぎりの淫靡なことばを発そうと、それで母に「おんち」とはつきりと一音一音区切つてそう云ったのだった。
母は眼をまるくしてなんと云ったか、わたしは「おんち」が音痴だなんてつゆも知らずきつとそれはとてもみだらでいやらしいことばなのだと、それをどうしても母に伝えなくてはならないと思つていた。
なにも知らないわたしはなにも、間違つていなかつたのだ。
言語感覚のめざめかもしれなかつた。
大きなホテルが閉店しました
ふゆの陽にさらされ確実にうすく軽く小さくたよりなく、なってゆく洗濯ものを
ゆつくりと畳む一日をおもつて
少女の眸のふるえを捉えたいつしゅんのあなたの瞼眼にも
いつとはしれずふゆの日にゆつくりと、深呼吸するいつしゅんをうつして
そうして終点の、駅をわたしは支えている
あざみ野のライオン
午後、大きな道路沿いを歩いていたら、ライオンが前からやってくる。
ライオンだライオンだライオンだ、と息を止めながらはや足で、ライオンの前を通り過ぎる。わたしのちょっと後ろを歩いていた友人も、ライオンだったね、と言っていたのでやっぱりあれはライオンだ。たて髪があるからオスの、ライオンだ。
道でライオンに遭っても、けっして慌ててはいけない、おそれることはないのです、だって都会に住むライオンはなべて一様に、まっすぐにしか進めないのです。
たこはたこ焼きの中におさまり、イカはジェット噴射で空を飛ぶ
パーソナルスペースの大きさは人それぞれです
パーソナルスペースは一人の人の中でも時と場合によって大きさが変わります
パーソナルスペースを侵さないようにしよう
パーソナルスペースを侵さないようにしよう
倉田百三は、非常に優秀な学生だったのに、独我論に悩み、学校に行かなくなった。
フィンセント・ファン・ゴッホは、ひまわりの絵をたくさん描いて、自分の耳たぶを切り落とした。
パーソナルスペースは持ち運ぶなわばり
パーソナルスペースを侵すとまずいことになる
パーソナルスペースを侵さないようにしよう
パーソナルスペースを侵さないようにしよう
お母さんはここまで来てもいいよ。お母さんの旦那さんはそっちの方まで。お姉ちゃんはここまでかな。お義兄さんはここまで。おじいちゃんとおばあちゃんはそこらへん。お父さんは。